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令和4年度企画展 県政150周年記念 愛知県のはじまりと県庁のあゆみ

令和4年度の企画展では、明治5(1872)年に愛知県が誕生してから150年を迎えた記念として愛知県の誕生から戦後までの歩みを展示しました。
デジタル展示室では、展示した資料の中から、県公報や郡役所文書、写真資料など様々な資料を紹介します。

愛知県のはじまり解説
明治4(1871)年7月14日、それまでの藩を廃し、県が置かれることになり(廃藩置県)、藩名がそのまま県名となりました。尾張の2藩は、名古屋県・犬山県に、三河の10藩は岡崎県・西大平(にしおおひら)県・重原(しげはら)県・刈谷県・西端(にしばた)県・西尾県・挙母 (ころも)県・半原(はんばら)県・豊橋県・田原県になりました。
同年11月、大蔵省の計画により、三河10県を統合し、尾張の知多郡を加えた額田(ぬかた)県が設置されました。その際、伊那県の管轄に編入されていた三河に散在する旧幕府領・旧旗本領・旧寺社領も額田県の管轄に入りました。
尾張(知多郡を除く。)では、同月22日、名古屋県・犬山県を統合し、名古屋県が設置されましたが、犬山県と統合する前の名古屋県と同じ名称であり、混同しやすいことから、明治5年4月2日に、県名が愛知県に改められました。この時、名古屋県権令(ごんれい)に着任していた井関盛艮(いせきもりとめ)が、愛知県権令となりました。
同年11月27日、額田県は愛知県と合併することとなり、1年ほどで額田県は廃止されました。これにより、愛知県は、尾張・三河地域を所管し、現在の県域となりました。
郡役所の設置と廃止解説
明治11(1878)年7月22日に公布された郡区町村編制法により、大区小区制は廃止され府県の下に改めて郡区・町村を設置しました。本県では同年12月に施行され、郡は行政区画となり郡役所が設置されるとともに、郡長が置かれました。
明治23年5月17日に公布された郡制により、郡は、府県と町村の間に位置する地方自治体となりました。本県では、翌年4月1日に郡制が施行され、名古屋市と、愛知郡や碧海郡などの19郡(後に18郡)となりました。
第一次世界大戦後、町村分賦金の急増により、町村の自治権拡大のためには郡制が大きな障害になっているとする考えから、郡制廃止を求める要望が強まっていきました。
その後も、郡制廃止に向けた動きは止まらず、大正10(1921)年に「郡制廃止ニ関スル法律」が公布され、同12年4月1日、ついに郡制は廃止されました。同15年には、地方官官制の全部改正により、郡長・郡役所が廃止されました。これによって、約50年続いた郡役所が幕を閉じることとなりました。本県では、それまで郡が行っていた事業は県や町村、組合に移管され、郡役所の職員の大半が県に採用されました。
愛知県庁舎の変遷解説
愛知県庁舎は4回の移転を経て現在に至っています。明治5(1872)年4月、名古屋県から愛知県に県名を変えた当初、県庁舎は、名古屋城郭内の旧名古屋藩庁(元尾張藩付家老竹腰家旧上屋敷)を使用していました。しかし、名古屋城郭内すべてが陸軍省に引き渡されることとなり、同7年11月に現在の真宗大谷派名古屋別院(東別院)内へ一時的に移転しました。
明治10年6月に仮庁舎から南久屋町へ庁舎を新築移転したのち、道路の改修事業により、再度移転を余儀なくされ、同33年に南久屋町から南武平町へ新築移転しました。
南武平町に移転した当初は余裕のあった庁舎も、次第に手狭になり、増築を行いながら利用されていましたが、大正14(1925)年に新たに建設計画が持ち上がり、調査が開始されました。しかし、不況などにより計画が一時中止となり、昭和10(1935)年にようやく着工となりました。その後も資材の高騰や日中戦争勃発など、急速に戦時体制へと移行する中での新庁舎建築は困難を極めましたが、昭和13年に竣工しました。
「官選知事」から「公選知事」へ解説
愛知県が誕生した当時(明治5年)の愛知県の地方長官は、初代は県権令(ごんれい)、二代目からは県令と呼ばれましたが、明治19(1886)年7月に公布された地方官官制により、知事に改称されました。
当時の知事は、国から任命されていたため、しばしば「官選知事」と呼ばれました。任命された知事は、内務省の人事異動に伴い、短期間で任地を離れていきました。
昭和22(1947)年5月3日に日本国憲法が施行され、第93条第2項において「地方公共団体の長(中略)は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」と定められました。知事は、住民による直接選挙で選ばれる「公選知事」となり、知事の身分は、日本国憲法と同時に施行された地方自治法により、地方公務員となりました。

1 あゆち潟

県名の「愛知(あいち)」は、当時の県庁所在地の郡名である愛知郡からつけられました。
「あいち」は、「あゆち(吾湯市、年魚市などと表記)」から転じたもので、『万葉集』で高市黒人(たけちのくろひと)が「年魚市潟(あゆちがた)」を歌枕にした和歌を詠んだことで知られています。
和歌の左には、雅楽歌謡の一種である催馬楽(さいばら)が詠まれています。

E12-12 尾張名所図会 前編 第五巻

2 新県取計心得

明治4(1871)年11月、全国規模での府県の大統合が行われて75府県となり、大蔵省第111号(法令全書) で新県取計心得が出されました。
資料には、県の統合などで廃県となった場所を出張所として従前のとおり事務を取り扱うようにとあります。「従前」という言葉が多くみられることから、旧県と新県の引継ぎがスムーズに行われるようにしていたことがうかがわれます。

E2-18 県治職制 新県取計心得 海西方

1 宝飯郡役所開庁祝詞

この資料は、郡役所開庁の際の様々な祝詞を貼りつけた巻物です。
明治11(1878)年12月に郡役所が初めて設置された後、同13年11月4日に宝飯郡御油(ごゆ)村字美世賜(みよし)(現豊川市)に新築移庁した宝飯郡役所の開庁式が行われました。
当時の愛知県令国貞廉平(くにさだれんぺい)は、開庁式当日に所用で臨席できなかったため、一週間後の11日に初めて新庁舎を訪れ、祝詞を述べました。

E19-1 宝飯郡役所開庁祝詞

2 田代村の村長に就任

この資料は、本館所蔵資料の宮脇家文書の一つで、愛知県職員であった宮脇正臣が愛知郡田代村の村長に就任することに対する知事からの許可書です。
村長は、町村会において住民の中から選出する間接選挙で選ばれました。病気などの理由なく就任を拒否したり任期途中で退職したりすると、町村税を増やされて公民権が止められました。村長の任期は4年で、無給の名誉職でした。任用には、県知事の辞令交付が必要でした。
県職員であった宮脇は休職扱いとなり、明治37(1904)年5月、田代村の村長に就任しました。

W1-40 (田代村長就職の件許可)

3 御真影を県庁へ奉還(大正15年・1926)

この資料は、郡役所の廃止にともない、東加茂郡役所に下付されていた御真影を県庁へ奉還した際の記録です。大正15(1926)年5月31日午前9時より郡役所で奉還式を行い、郡長と主事の2名が御真影を奉戴し、巡査の付き添いのもと午後3時に県庁正庁に奉還したとあります。
※御真影とは、天皇の視覚化のため府県庁や軍隊、学校などに下付された天皇・皇后の公式肖像写真を指し、正式には御写真と言われます。

E17-5 事務功程書

4 郡役所の位置

明治11(1878)年に郡区町村編制法が施行されたことにより設置された郡区役所の位置として、愛知郡役所をはじめ18郡役所と、名古屋区役所が記されています。資料にあるとおり丹羽郡と葉栗郡、海東郡と海西(かいさい)郡は2郡で一つの郡役所でした。その後、明治24年の郡制施行により1郡に1郡役所設置することになり、これまで郡役所のなかった郡にも郡役所が設置されました。

E3-90 行政庁(県庁郡役所位置)

5 宝飯郡の要覧

この資料には、大正元年調べの宝飯郡の政治・経済・文化などの情勢が載っています。
表面では、町村間の距離や郡役所までの距離が表にされており、郡内の地図も載っています。
なお、裏面には、気象や農業、財政などの統計資料から宝飯郡の当時の状況を知ることができます。

318.1=26-912 愛知県宝飯郡治一斑 大正元年

1 南久屋町の愛知県庁舎(明治10年・1877)

明治10(1877)年6月19日に、南久屋町で新築開庁した県庁舎は、アーチを多用した木造2階建ての洋風建築でした。妻面(つまめん)と呼ばれる建物の棟に直角に接する側面には菊花紋章が付けられ、洋式の中に日本らしさを取り入れた建物でした。

Q000000-C(0457) 愛知県庁(明治10年新築)

2 地籍図(明治17年・1884)

この資料は、明治17(1884)年1月調べで作成された地籍字分全図(地籍図)の一部分です。
中央に「15番 愛知縣廰」の記載があります。当時、愛知県庁は南久屋町に置かれていました。
赤色の線は道路を意味し、県庁の位置は左から伸びている広小路通の終点に位置していました。

地籍図 名古屋区1 人

3-1 南武平町に移転(明治33年・1900)

この資料は、明治33(1900)年3月31日の県公報です。
南久屋町に建っていた県庁を「南武平町元第一師範学校跡へ移転」すると当時の県知事が告示しています。

D34 愛知県公報 明治33年

3-2 南武平町の愛知県庁舎

南久屋町の県庁舎は、広小路通の延伸計画の支障となったため、明治33(1900)年4月1日に、南武平町の旧愛知県第一師範学校跡地に新築移転しました。
新庁舎は南向きで建てられ、広小路通に面して門を構えた木造2階建ての和風建築でした。

P1-89 愛知県庁舎等の写真

4 建築中の愛知県庁舎

愛知県庁本庁舎は北隣にある名古屋市役所本庁舎と同じ帝冠様式で、県庁の基本設計は渡辺仁と西村好時の両氏の案を基本に、佐野利器と土屋純一の指導を受け、県営繕課の職員が実施設計を行ったとされます。
昭和10(1935)年10月24日に起工式が行われました。総工費300万円の予算で着工し、敷地面積は10,087坪で、戸田組が施工を担当しました。そして、同13年3月22日に竣工しました。

Q000000-B(0023) 全景 西南より

1 当選の告示(昭和22年・1947)

第1回愛知県知事選挙は、日本国憲法の施行を控えた昭和22(1947)年4月5日、第1回統一地方選挙において投票が行われました。投票率は76%で、立候補者6人の中から青柳秀夫(あおやぎひでお)が当選しました。
この資料は、愛知県知事選挙で、青柳秀夫が当選したことを知らせる告示です。4月7日に選挙長から出されています。

D108 愛知県公報 昭和22年

2 知事選で当選し初登庁の桑原知事

これは、第2回愛知県知事選挙(昭和26(1951)年)で、決選投票の末に当選した桑原幹根(くわはらみきね)が初登庁したときの写真です。旧議場(現講堂)で、職員に向かって就任演説をしている時の様子です。

Q000000-C(0633) 知事選で当選し初登庁の桑原知事

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