展示テーマ

平成29年度企画展 公文書館で見つけた「旅」-資料でたどる旅のすがたと名所ー

平成29年度の企画展では、「旅」をテーマとして取り上げました。
本館で所蔵している、主に江戸後期から昭和初期にかけての旅に関する資料を集め、当時の旅のすがたや県内外の名所に関する資料を展示しました。また、県内にある名所の維持・管理に関わる公文書についても紹介しました。
このデジタル展示室では、展示した資料の一部を紹介します。資料を通して、県内外の名所旧跡に興味を持ち、旅に出たくなってもらえましたら幸いです。

県内外の名所絵図解説
企画展で使用した、県内外の名所についての絵図をいくつか紹介します。
旅や名所に関する文書解説
江戸時代の往来手形や明治時代の名所旧跡の調査書など、旅や名所に関する文書資料を紹介します。

1-1 信濃国善光寺名所図(明治21年・1888)

明治21年(1888)に発行された、善光寺境内とその周辺の案内図です。本堂の他、二王門や山門、大本願や大勧進など、現在と変わらない配置のままの建物が多く見られます。また、名称の記載はありませんが、かつて源頼朝が参詣に訪れた時に馬を返したとされる「駒返り橋」と呼ばれる石橋も、二王門と山門の間に見えます。善光寺の特徴である宿坊がずらりと並んだ様子も、当時から変わっていないようです。

W15-1-737 (刷物、信濃国善光寺名所図、包紙共、包紙上書「名所独案内善光寺土産、古泉堂」)

1-2 信濃国善光寺名所図(明治21年・1888)

名所図の包紙です。裏面には「明治21年4月」という出版年月と「長野県上水内郡高田村 水沢米作」という作者兼発行者名も印刷されています。

W15-1-737 (刷物、信濃国善光寺名所図、包紙共、包紙上書「名所独案内善光寺土産、古泉堂」)

2-1 津島牛頭天王社(明治43年・1910)

「尾張名所図会」は、尾張国にある寺社・旧跡・地名・景勝地などの由緒来歴や、街道・宿駅・河川などの案内を平易に解説し、実景描写の挿絵を多数加えた地誌で、写真は津島神社(現津島市)についての記述の一部です。旧来は「津島牛頭天王社」と呼ばれていた津島神社は、資料では欽明天皇元年(540)、津島の地に素戔嗚尊が光臨したことに始まるとされています。疫病や厄除けの神徳がよく知られ、参詣者が常に絶えなかったとあります。現在、天王川公園で行われている神事の尾張津島天王祭は、「船祭」として大きく紹介されています。

E12-12 尾張名所図会

2-2 津島牛頭天王社(明治43年・1910)

3枚にわたる津島神社の境内図のうちの2枚目で、中央右手の本社や左手にある拝殿、本社の左下にある楼門など、現在と建物の配置が大体同じであることがわかります。
楼門の右手端にある「蛇毒神社」とは八岐大蛇の霊を祀った神社で、現在の荒御魂社にあたります。この他、石垣で囲まれた境内には、現在も残るものから既に存在しないものまで、多数の社が見受けられます。

E12-12 尾張名所図会

3-1 名古屋名勝案内(昭和11年・1936)

この資料は昭和11年(1936)発行で、昭和12年3月から5月にかけて名古屋港周辺地域で開催された、汎太平洋平和博覧会に合わせて作成されたものと思われます。市内の名所を記した地図には、赤い四角で囲み斜線を引いた博覧会の会場が示されており、一際目立ちます。

689=15629 名古屋名勝案内

3-2 名古屋名勝案内(昭和11年・1936)

裏面には、市内の各名所の簡単な説明や行き方等が載せられています。熱田神宮にはじまり中川運河、鶴舞公園や覚王山日泰寺など様々な名所がある中、現在の愛知県庁が建設中であったり、名古屋城が第三師団司令部とされていたりと、当時の状況もうかがえます。

689=15629 名古屋名勝案内

4-1 吉田宿

江戸時代後期に活躍した浮世絵師・歌川広重は、「東海道五十三次」と呼ばれるシリーズ物を生涯のうちにいくつも制作しており、写真は各図の中に狂歌が詠まれているため、俗に「狂歌入東海道」と称されているものです。
吉田宿(現豊橋市)を描いたこの一枚には、画面右手に吉田城、左手前には吉田大橋(現在の豊橋(とよばし))、橋の下を流れる豊川、荷物を運搬する舟の様子も描かれています。豊川は舟運が盛んで、信州・奥三河方面からの荷物は吉田まで運ばれて、廻船に積み替えられていました。なお、狂歌にある「めし盛」とは旅籠に置かれた女中のことで、給仕の他に客の酒の相手などをすることもありました。
〈狂歌〉もてなしハ いかによし田の めし盛や しゃくし づらでも うまく のむ酒
                                  花垣 市心

L5-080 安藤広重東海道五十三次[狂歌入東海道]

4-2 鳴海宿

この資料は、「狂歌入東海道」のうち鳴海宿(現名古屋市緑区)の様子を描いた一枚です。店先に並んでいる染物は、鳴海宿の土産物として売られていた「有松絞」です。これは、主に隣の有松地区で生産されている、木綿の布を絞って藍で染めたもので、現在でも名産として知られています。狂歌にある「笠寺」とは、鳴海宿から熱田宿へ向かう途中にある、笠寺観音(天林山笠覆寺)のことと思われます。
 〈狂歌〉たがぬひし 梅の笠寺 春さめに 旅うぐひす の 着てや 行らん  
                               果報坊 寝待

L5-080 安藤広重東海道五十三次[狂歌入東海道]

1 西国三拾三所順拝並名所・旧跡附(文化7年・1810)

この資料は、丹羽郡和田勝佐村(現江南市)居住の大脇九郎右衛門が、8人の同行者と西国三十三所の巡礼の旅に出た時に、訪れた名所旧跡を書き付けたものです。しかし、全体を通して見ても、巡礼地は三十三のうちたった四つしか記載されていません。写真の部分でも、兵庫県の尾上神社から香川県の善通寺まで足を延ばし、姫路城を見て京都府の宮津へ向かっています。巡礼の旅と銘打ってはいるものの、寄り道だらけの旅路であったことが窺えます。

W15-1-147 西国三拾三所順拝並名所附旧跡附

2 往来一札(安政4年・1857)

この資料は、一般的に「往来手形」といわれるものです。江戸時代、庶民が旅行する際必ず携行した身元証明書で、諸国の役人宛に出されます。身許証明や宗旨証明を兼ねるため、地元の庄屋や檀那寺(菩提寺)が発給することが多く、この資料も玄猷寺(げんにゅうじ)という寺院が作成しています。安政4年(1857)、知多郡姫島村(現東海市)居住の彦蔵が諸国へ寺社参詣の旅に出るため、途中行き倒れた時の世話と万一死亡した時の措置を旅先の諸国役人へ依頼しています。
なお、手形の末尾には「もしもの時でも在所への連絡は不要」と書かれることが多いのですが、実際は、手形を持っていれば故郷へ知らされたようです。

W20 送り往来一札之事・一札(村送り)・往来一札

3-1 大御堂寺大坊(明治28年・1895)

明治28年4月5日の内務省訓令第3号で、管内の古社寺と社寺・名所旧跡の著名な建築物や碑文、宝物について、保存を要するものを取り調べるようにと通達が出されました。愛知県は、同年同月15日の訓令第36号で各郡市役所・町村役場へ上記の内容を通達し、各郡から提出された取調書には、所在地・社寺等の名称・祭神もしくは本尊・事由(由緒等)・境内敷地・宝物・絵図面などが記載されています。
知多郡野間村(現同郡美浜町)にある大御堂寺(おおみどうじ)は、資料によると白河天皇の勅願寺として承暦年間(1077年頃)に建立されたとあります。大御堂寺とは一山の総称で、山中にある巨刹を「大坊」と称しており、現在は野間大坊とも呼ばれています。

E11-2 古社寺取調一件留

3-2 大御堂寺大坊(明治28年・1895)

取調書の添付絵図面です。木々に囲まれた本堂やその左手の別当大坊の他、源義朝最期の地とされるこの場所には、義朝やゆかりの人々の墓所もみえます。義朝の首を洗ったとされる「血池」は、国家有事の際には池の水が赤くなるといわれています。

E11-2 古社寺取調一件留

4-1 皇太后宮還御留(明治10年・1877)

明治10年(1877)1月、英照皇太后(明治天皇の母)が東京から京都へと行啓されていました。この資料は、5月に皇太后が東京まで東海道筋を御通行される途中で熱田駅にて御宿泊された時の、熱田駅における対応の記録です。事前準備から後処理まで、様々な内容の文書が残されています。

E4-1 皇太后宮還御留 御泊輦 熱田之部

4-2 皇太后宮還御留(明治10年・1877)

この文書は、皇太后が御通行されるにあたって、愛知県令から出された通達です。当時熱田の地を所管していた第一区・六区の区戸長宛に、諸事不都合なく取り計らうよう命じています。

E4-1 皇太后宮還御留 御泊輦 熱田之部

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