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令和2年度企画展 史料で読む幕末維新の一大事

令和2年度の企画展は、前年に元号が「平成」から「令和」に変わり、新しい時代が始まったことを受け、約150年前、「明治」への改元とともに時代が移り変わる頃に起こった事件等について、本館所蔵の旧藩書類、寄贈・寄託された古文書などを用いて紹介しました。
デジタル展示室では、企画展で取り上げた“一大事”について解説します。目まぐるしく変わる当時の状況を、少しでも身近に感じていただけましたら幸いです。

幕末の一大事解説
嘉永6(1853)年の黒船の来航以降、外交の在り方をめぐり日本国内の情勢はにわかに慌ただしくなりました。その中で、天皇の勅許なく外交条約を結んだことをはじめ、強権的な政策を展開した大老・井伊直弼が、安政7(1860)年3月3日に暗殺されるという事件が起こりました。時の最高権力者が殺害されるという一大事ののち、江戸幕府の権威は次第に失墜していき、やがては明治維新に至ります。ここでは、明治維新に至る間に起こったいくつかの事件の中から、「桜田門外の変」「天狗党の乱」「長州征討」について紹介します。
戊辰戦争解説
慶応3(1867)年12月9日、王政復古の大号令が出され、200年以上続いた江戸幕府は終わりを迎えました。しかし、旧体制を一新することは容易でなく、新政府と旧幕府は対立し、慶応4年1月3日、ついに京都南郊の鳥羽・伏見地区で武力衝突に及びました。
この鳥羽・伏見の戦いから始まる戊辰戦争は、上野・北越・東北戦争を経て、翌明治2(1869)年5月に終わる箱館戦争(五稜郭の戦い)まで、1年以上続きました。
青松葉事件解説
戊辰戦争が勃発し、勤王派(新政府側)か佐幕派(旧幕府側)かで各藩の情勢が揺れ動く中、尾張藩においても事件が起こりました。
慶応4(1868)年正月、元藩主徳川慶勝が藩内の佐幕派とされる主だった人物を断罪し、藩論を勤王派に統一するに至りました。処刑された者は14人、蟄居謹慎等を言い渡された者は21人(後日処分を受けた竹腰兵部少輔(正諟、正富)を含む)と、尾張藩にとって一大事件となりました。処刑された重臣の筆頭格であった渡辺新左衛門家の異名(諸説あり)から、「青松葉事件」と呼ばれています。
処罰された者の中には、先の長州征討で慶勝に従って出征した人物の名前も複数あり、「依朝命」「志不正」などとされた彼らの罪科が具体的にどのようなものであったのか、真相はわかっていません。
  • 1 高須四兄弟(年代不明)
    1 高須四兄弟(年代不明)
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  • 2 青松葉事件(慶応4年・1868)
    2 青松葉事件(慶応4年・1868)
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  • 3-1 青松葉事件関係者、家名御立士族へ御組入、給禄被下置候(明治3年・1870)
    3-1 青松葉事件関係者、家名御立士族へ御組入、給禄被下置候(明治3年・1870)
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  • 3-2 青松葉事件関係者、家名御立士族へ御組入、給禄被下置候(明治3年・1870)
    3-2 青松葉事件関係者、家名御立士族へ御組入、給禄被下置候(明治3年・1870)
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西南戦争解説
明治10(1877)年、明治政府に対し不満を抱く鹿児島の士族たちが、西郷隆盛を擁して反乱を起こしました。のちに西南戦争と呼ばれるこの戦争は、日本史上最後の内戦といわれています。
政府は、征討総督として有栖川宮熾仁(たるひと)親王を任命し、本営を大阪に置きました。各県から兵が動員され、愛知県からも多くの兵士が出征しました。西郷軍は熊本鎮台の本拠地熊本城を攻略しようとしましたが失敗し、その後、植木や田原(たばる)坂をはじめ九州各地で激戦を繰り広げたのち、政府軍の総攻撃を受け、西郷隆盛は自害しました。残存していた兵員も多くが戦死し、戦争は終結しました。

1-1 桜田門外の変騒動書写(年代不明)

安政7(1860)年3月3日、水戸・薩摩の浪士18人により、大老・井伊直弼が暗殺されました。
五ツ半時(午前9時頃)、上巳の節句の祝賀のため、雪の中を江戸城へ登城する井伊の行列が桜田門に差しかかったところで起きたことから、「桜田門外の変」と呼ばれています。
この資料は、丹羽郡和田勝佐村(現江南市)の庄屋を務めていた大脇家に伝わったものです。書写された年代は不明ですが、事件からそれほど時を経ず書かれたものと思われ、桜田門外の変に関する様々な文書が綴られています。江戸から遠く離れた尾張の地にも、大老暗殺という一大事は伝わっていたようです。

W15-1-148 安政七庚申三月三日 桜田御門外騒動書写(大脇家文書)・寄託資料

1-2 掃部頭様御届

この文書は、今朝登城の途中狼藉者に襲われ、供人たちが防戦し…と、事件の概要を井伊掃部頭(かもんのかみ:井伊直弼)名で報告しているものです。実際には井伊は、その場で首を討ち取られているのですが、狼藉者を取り押さえる指揮を執っていたが怪我をしたのでひとまず帰宅した、とあります。当時、跡継ぎがないまま当主が亡くなった家は断絶となっていたため、このような文書が作成されました。別紙には、この時死傷した行列の者たちの名が記載されています。

W15-1-148 安政七庚申三月三日 桜田御門外騒動書写(大脇家文書)・寄託資料

1-3 遠山但馬守内(姓名不詳)より

この文書は、遠藤但馬守(近江三上藩主遠藤胤統(たねのり))家臣からの報告です。五ツ半時(午前9時頃)に侍体の者が切害した人物の首を持っていたので主人の名前を尋ねたところ、松平修理大夫(薩摩藩主島津忠義(ただよし))の家来であることがわかったが、弁舌がはっきりしないため手当てをした、とあります。この人物は、井伊直弼を殺害した有村次左衛門のことと思われ、彼はこの地で力尽きました。なお、報告者の「遠山」は「遠藤」の誤りと思われます。

W15-1-148 安政七庚申三月三日 桜田御門外騒動書写(大脇家文書)・寄託資料

1-4 細川越中守様へ徒党の者罷出候節口上

この文書は、事件の実行犯であり、事後に細川越中守(熊本藩主細川斉護(なりもり))邸へ自訴した水戸藩の浪士たちの口上覚です。2月に国元を出て愛宕(あたご)山(東京都港区)で同志たちが寄り合い、桜田門外において井伊直弼の駕籠越しに刀を突き刺し、井伊を引きずり出して首を討ち取るとそれぞれ方々へ逃げたことや、どこへ届け出るべきかわからないためここで出頭し、公儀の裁許を待つ覚悟であり、それまで身を置かせてほしいということが記されています。

W15-1-148 安政七庚申三月三日 桜田御門外騒動書写(大脇家文書)・寄託資料

2 桜田門外の変位置関係図(安政6年・1859の複製)

この資料は、江戸城を中心に江戸の町やその周辺地域を描いた絵図です。城の西御丸の左下、「井伊カモン(掃部)」とあるのが井伊直弼の江戸屋敷、屋敷前の道を右に行ったところに「櫻田御門」があります。このほか、「上杉ダン正(弾正)」や「日比谷御門」、「脇坂」「遠トウ(「タ」抜け)ジマ(遠藤但馬)」「御評定所」「細川ヱツ中(越中)」など、事件に関連した場所が江戸城のお堀に沿って点在しており、事件後の襲撃者たちの足取りがわかります。
なお、図は北を上にして配置してあります。

H347 江戸絵図・館蔵(部分)

3 天狗党の乱に関する宿駅絵図(元治2年・1865写)

天狗党の乱とは、水戸藩の尊王攘夷派である天狗党に与(くみ)する者たちが、元治元(1864)年3月、筑波山(現茨城県つくば市)で挙兵したことに始まる争乱のことです。
この絵図は尾張藩士の大塚三右衛門家に伝わった文書で、尾張藩領の中山道太田宿(現岐阜県美濃加茂市)を通過した天狗党の浪士たちの動向を追って作成されたものと推察され、主に東海・北陸地方の宿駅が描かれ、天狗党や追討軍の動きも記載されています。朝廷へ攘夷の意思を伝えるため、水戸徳川家出身の一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を頼って中山道から京都を目指した天狗党勢は、11月の終わりに鵜沼宿(江戸から見て太田宿の次の宿場)で宿泊した後、追討軍が迫っていたため進路を北へ逸らして越前国へ向かい、再び西上します。しかし、新保村(現福井県敦賀市)で追討軍に包囲され、また慶喜が追討軍の指揮を執っていると知り、ついに投降しました。投降した823人のうち352人が処刑されるなど、天狗党への幕府の処罰は非常に厳しいものでした。

W21-147 (天狗党関係絵図)・館蔵

4 尾張前大納言様、長州征伐の為大蔵谷駅へ止宿(元治元年・1864)

文久3(1863)年8月18日の政変により、京都から追放される形となった長州藩は、翌元治元(1864)年に起こした禁門の変で会津・薩摩藩等の軍勢と戦って敗れました。この戦いの後、長州藩は朝敵とされ、朝廷から幕府へ長州征討の命が下り、幕府は前々尾張藩主徳川慶勝を征長総督、越前藩主松平茂昭(もちあき)を副総督として長州征討に向かわせました。しかし、長州藩が朝廷に謝罪恭順したことにより征討軍の総攻撃は中止され、征討軍は解散しました。いわゆる第一次長州征討です。
この文書は、明石藩が作成した日記の一部分で、長州征討に際して尾張前大納言(徳川慶勝)が明石藩領の大蔵谷駅(現兵庫県明石市)で宿泊したことが記載されています。11月1日に大坂を出立した慶勝は、3日に明石藩領へ差し掛かり、大蔵谷駅で宿泊しました。その時の対応が入念であり、満足していたことが報告されています。なお、この前後の文書には、永井主水正(もんどのかみ:大目付永井尚志(なおむね))や稲葉美濃守(老中稲葉正邦(まさくに))など、ほかにも征討関係の人物が通行していることが報告されています。

E1-21 日記・館蔵

1-1 政権奉帰につき二臣より取計候(慶応3年・1867)

この文書は、尾張大納言(元尾張藩主徳川慶勝)・松平大蔵大輔(元越前藩主松平春嶽)の連名により、12月12日付で作成されたものです。
内府(徳川慶喜)が政権奉帰(大政奉還)したものの、「輦轂(れんこく)之下」(皇居のある地、つまり京都)で紛擾があってはいけないので、情勢が落ち着くまで慶喜は下坂し、のちに上京して御沙汰を待ち、会津・桑名の2藩はひとまず下坂ののち海路にて帰藩するはず、と述べています。
この文書には宛先はなく元号の表記もありませんが、慶応3(1867)年12月9日の王政復古直後のものと思われます。政情不安定な中、京都が戦火に包まれることを回避しようとしていたことがうかがわれます。内府のことについては機会を熟察して取り計らい、また「御譴責(けんせき)」(お咎め)があれば自分たちが受ける、とあります。
なお、当館ではこの資料の複製本を所蔵しています。

国立公文書館デジタルアーカイブ(府県史料愛知/0006 旧名古屋県分御一新以来御達願伺届(慶応3‐明治4年))

1-2 政権奉帰につき二臣より取計候(慶応3年・1867)

国立公文書館デジタルアーカイブ(府県史料愛知/0006 旧名古屋県分御一新以来御達願伺届(慶応3‐明治4年))

2-1 明治天皇御親征・行幸、大坂へ(慶応4年・1868)

行在所(あんざいしょ)とは、天皇の行幸の際、旅先に設けられる仮の御所のことです。巻号第1によると、慶応4(1868)年3月「中古絶タリシ御親征ノ大典ヲ挙サセラレ」として、鳥羽・伏見の戦いで敗走した旧幕府軍に対する御親征の名目で、明治天皇は大坂に行幸しました。この時、行在所は西本願寺(津村別院:大阪府大阪市所在)に設けられました。
21日の朝に京都を発輦(はつれん)した明治天皇は、国家安泰の祈願のため石清水八幡宮に参詣・祈念し、23日の午後に行在所へ到着しました。この後ろには、付き従った行列の供奉(ぐぶ)人の名前が列挙されています。

W22-270 御親征行幸中行在所日誌第1~3・館蔵

2-2 明治天皇御親征・行幸、大坂へ(慶応4年・1868)

W22-270 御親征行幸中行在所日誌第1~3・館蔵

3 軍監牧野群馬ヨリ文通(慶応4年・1868)

この文書は、戊辰戦争に従軍した土佐藩士牧野群馬の報告書です。「鷲尾卿(鷲尾隆聚:わしのおたかつむ)」は、のちに愛知県令を務めた公家で、戊辰戦争においては奥州追討総督の任に就いていました。巻号第4によると鷲尾は、6月23日に白川(福島県白川市)へ到着し、軍議の後翌24日、薩摩・土佐・黒羽・長州・大垣・忍(おし)藩ら新政府軍を率いて棚倉(福島県東白川郡棚倉町)へ進撃しました。その勢いは「誠ニ朽(くちたる)ヲ摧(くじ)ク如クニテ愉快ノ事」とあり、午後2時頃棚倉城は落城した、と記載されています。
慶応4(1868)年5月19日に設置された新政府の軍政機関である江戸鎮台は、同年6月から7月にかけて「関東鎮台日誌」を発行しました。内容は、新政府の布告書・沙汰書と各藩からの届書からなり、戊辰戦争に従軍した各藩からの戦況報告が多く含まれています。

W22-273 関東鎮台日誌第1~第4・館蔵

4-1 磅礴隊履歴書(明治8年・1875)

この文書は、幕末から明治維新期にかけて尾張で結成された部隊(草莽(そうもう)諸隊)のひとつである磅礴(ほうはく)隊の履歴書です。慶応4(1868)年正月に乾山侯(成瀬正肥(まさみつ))を通じて前大納言(徳川慶勝)へ提出された建白書(写)には、「勤王之御一端草莽相応之御用途」に役立てられれば「期万死一同踊躍難有奉存候」とあります。この後ろには、結成から解隊までの大まかな活動内容が記載されています。
磅礴隊は、勤王誘引や戊辰戦争などで活躍し、明治4年9月に帰田法の施行により解隊しました。

E3-41 草莽諸隊 山同心 農同心履歴書・館蔵

4-2 磅礴隊履歴書(明治8年・1875)

E3-41 草莽諸隊 山同心 農同心履歴書・館蔵

5-1 帰伏に付御執成願(慶応4年・1868)

これは、尾張藩士の大塚三右衛門家に伝わった文書です。大塚家は、尾張藩14代藩主徳川慶勝に仕え、幕末の尾張藩において重要な役割を果たした田宮弥太郎(如雲、篤輝)の生家です。如雲が京都市中や伏見地区を取り締まる役所の総管を命じられた時、甥である大塚亀治郎を伴ったことから、幕末維新期の京都市中や伏見地区の情勢がわかる文書が残されています。
この文書は、鳥羽・伏見の戦いの後、元々伏見奉行で働いていた旧幕府方の役人が新政府へ帰順するための取り成しを頼んでいるものです。申告者は7名で、年若く実務に携わっていなかった1名を除いた6名の、奉行所がなくなってからの動向が述べられています。
宛先の大山彦八は西郷隆盛の従兄弟で、新政府で要職を歴任していく大山巌の兄です。

W21-9-1 (願、帰伏に付宜御執成被下候様願)・館蔵

5-2 帰伏に付御執成願(慶応4年・1868)

W21-9-1 (願、帰伏に付宜御執成被下候様願)・館蔵

6 五月朔日戦争相始り云々(慶応4年・1868)

この文書は、「内外新報」第40号に載っている記事で、慶応4(1868)年5月1日に白川と白坂との間(現福島県域)で始まったという戦いについてのものです。北軍(旧幕府軍)は仙台・会津・福島・二本松・棚倉藩勢、官軍は薩州・長州・藤堂(津)藩勢で、双方多人数の大合戦となり、北軍が大勝利を収めました。しかし勝ちに乗じて会津藩勢が追撃に深入りしたところ、横合いから現れた官軍に敗北し、総勢引き上げたとあります。
「内外新報」とは、慶応4年閏4月に創刊し、同年6月に第50号で終刊した、佐幕派(旧幕府側)の新聞です。橋爪貫一らの海軍会社から江戸で発行されたもので、その内容は戦争記事や建白書、外字新聞の翻訳などです。

W22-6 内外新報第13~40号・館蔵

1 高須四兄弟(年代不明)

この資料は、尾張藩士の大塚三右衛門家に伝わった文書で、尾張藩の支藩である美濃高須藩9代藩主松平義和(よしなり)以降の高須藩主の系図です。右上に「四ッ谷」とあるように、高須藩の江戸屋敷が四谷(現東京都新宿区)にあったことから、四谷松平家とも称されます。尾張藩14代藩主徳川慶勝は高須藩出身で、尾張藩を相続する前には図中の「義恕(よしくみ)」と名乗っていました。このほか、「義比(よしちか:尾張藩15代藩主徳川茂徳(もちなが))」、「容保(かたもり:会津藩9代藩主松平容保)」、「定敬(さだあき:桑名藩主松平定敬)」と合わせ、「高須四兄弟」と称されます。この四兄弟は、幕末維新の際に旧幕府軍と新政府軍とで対立する立場になります。
なお、同じく慶勝の兄弟である「範次郎」は、のちの高須藩13代藩主松平義勇(よしたけ)です。

W21-167 (高須松平家系図・四ッ谷)・館蔵

2 青松葉事件(慶応4年・1868)

藩内の人事や給禄に関することなどが主に日付順で綴られている「惣帳届留」の、慶応4(1868)年正月の部分に、青松葉事件に関する記録があります。
20日夕方に城内で処断された3人をはじめ、「依朝命」「志不正」といった理由で処刑された14名、蟄居謹慎等を言い渡された20名の名前が記されています。

E2-1 惣帳届留 天・館蔵

3-1 青松葉事件関係者、家名御立士族へ御組入、給禄被下置候(明治3年・1870)

明治3年に名古屋藩庁が作成した日誌の12月分、第33号に青松葉事件に関する記述があります。渡辺新左衛門以下、青松葉事件において処断され、家名断絶とされた者たちの家族は、以後他家預りとされていました。しかし、この度、親類からの願いを受けて「全別格之御吟味」により、家名が新たに立てられ、士族へ組み入れられるとともに、給禄も支給されることになった、とあります。紹介しているのはその一部分です。

E2-5 名古屋藩庁日誌 第二巻・館蔵

3-2 青松葉事件関係者、家名御立士族へ御組入、給禄被下置候(明治3年・1870)

E2-5 名古屋藩庁日誌 第二巻・館蔵

1 西南戦争の負傷兵等の帰郷届綴(明治10年・1877)

西南戦争では、愛知県からも名古屋鎮台等の兵が派遣され、官軍の一員として戦闘に参加していました。
この資料は、西南戦争における戦傷病者の帰郷届を綴ったものです。戦役により負傷したため療養していた兵士が各村の用係、副戸長、区長を経て県令宛てに、大阪陸軍臨時病院をはじめ療養先から無事に帰郷したことを届け出ています。また、届を受理した後、県が県令の名で兵士の所属に宛てて、兵士が確かに帰郷した旨の証書を送付していたこともわかります。

1295 西南負傷兵皈郷届書
原本:国文学研究資料館蔵 愛知県庁文書
24N/01295 「西南負傷兵帰郷届書 帰郷兵復役免役名簿、証書返送〔五他〕」

2-1-1 桐野利秋の人物評(明治10年・1877)

この文書は、明治10年3月に発行された、西南戦争に従軍した政府軍兵士の日記の一部分です。巻号第2には2月19日から25日までの、主に熊本城の攻防についての内容が挿絵付きで書かれています。その中に、西郷に従う桐野利秋について言及した部分があり、「所謂三国ノ呂布ニアラズンバ水滸伝ノ黒旋風ニ似タル號勇善戰ノ壮士」としつつも「策略ハ毫(すこし)モナキ人物」と言い、「勇余アリテ其智足ラザルモノ欤(よ)」と評しています。

W22-289 鹿児島征討日記第2~5・館蔵

2-1-2 桐野利秋の人物評(明治10年・1877)

W22-289 鹿児島征討日記第2~5・館蔵

2-2-1 野津少将、聯隊旗を奪還(明治10年・1877)

この文書は、明治10年3月に発行された、西南戦争に従軍した政府軍兵士の日記の一部分です。巻号第4には主に3月初旬の戦闘の様子が書かれています。この中で、戦いの最中に西郷軍に奪われていた聯隊旗を、陸軍少将の野津鎮雄が敵中に飛び込んで奪い返すという話が、挿絵とともに載せられています。

W22-289 鹿児島征討日記第2~5・館蔵

2-2-2 野津少将、聯隊旗を奪還(明治10年・1877)

W22-289 鹿児島征討日記第2~5・館蔵

3 西郷隆盛花岡山へ陣を移し云々(年代不明)

この資料は、明治10年3月大阪で出版された錦絵新聞で、西南戦争の報道を扱った「有のそのまま」の第16号です。熊本城を見下ろせる花岡山中に陣を置いた西郷軍が、大砲を撃ち掛けている場面が描かれています。中央の砲撃を指揮している白いズボンの人物が西郷隆盛です。右上にある本文では、花岡山上に陣を置いた賊(西郷)軍と官軍は、植木や田原坂において激戦を繰り広げたものの、官軍が勝利を重ね、賊軍は夜中雨に紛れて撤退していった、と官軍の勝利をたたえています。
錦絵新聞は、明治初期に流行した新聞の一種で、多色刷りの浮世絵である錦絵を用いてニュースを伝えています。

W22-205 新聞資料大阪版「鹿児島県有のそのまま」 4号、16号・館蔵

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