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令和3年度企画展 明治・大正の流行り病 ―祈祷から予防・衛生対策へ―

令和3年度の企画展では、明治・大正時代に流行した天然痘やコレラ、スペイン風邪などの流行り病とその対策について展示しました。
このデジタル展示室では、企画展で展示した資料を中心に、愛知県公報やそれより前の時代の布達類などを紹介します。
これらの資料が伝染病や感染症への理解を深めていただくきっかけとなれば幸いです。

疫病退散の風習と天王信仰解説
古くから、疫病(えきびょう)は「疫病神(やくびょうがみ)」によってもたらされると信じられてきたため、疫病が流行すると、人々は疫病退散の祈祷など「疫病神」を追い払う風習や信仰に救いを求めていました。疫病退散の信仰の1つに天王(てんのう)信仰があり、仏教神である牛頭(ごず)天王は、疫病をもたらす悪霊を追い払う力があると信じられていました。
幕末の開国以降、コレラ等の伝染病がたびたび流行するようになり、政府や県は西洋医学の普及や伝染病の予防、衛生対策の推進に努めました。しかし、その一方で旧来からの風習や神仏への信仰に頼る傾向も根強く残りました。
天然痘と予防接種解説
天然痘は、昭和55(1980)年にWHO(世界保健機関)が世界根絶宣言を行っており、それ以降、現在まで天然痘患者は発生していません。日本では奈良時代に大陸から移入されて以来、何度も大流行しました。天然痘は感染力が強く死亡率の高い病で、全治すれば再度罹患しませんが、治癒した場合でも痘痕(あばた)が生涯消えませんでした。
天然痘の予防接種である種痘(しゅとう)は、嘉永2(1849)年に長崎でオランダ商館医モーニッケが牛痘の膿(うみ)を接種する「牛痘(ぎゅうとう)法」を成功させると、全国へ広まりました。愛知県域では、同5年に尾張藩が名古屋広小路通大津町(現名古屋市中区)に種痘所を設置したのをはじめとして、複数の種痘所を設け、種痘の普及に努めました。
明治政府も全国に種痘の実施を命じており、愛知県は種痘を受けるように促す布達を数多く出しています。
公立病院と医学校解説
愛知県域における公立病院と医学校の成立は、明治4(1871)年7月に、名古屋藩が旧評定所に設立した仮病院に遡ります。直後の廃藩置県により、名古屋藩を引き継いだ名古屋県は仮病院と仮医学校を設立しますが、仮病院は翌年2月に廃止され、8月に有志によって義病院が設立されます。しかし、この病院も資金難で廃止され、明治6年5月、西本願寺掛所内に改めて仮病院が置かれました。
コレラの予防と衛生行政解説
現在の日本では防疫体制が確立しているため、コレラが流行することはほとんどありません。しかし、医学的な知識の乏しかった明治時代前半期は国内でも猛威をふるい、多くの死者を出しました。
コレラは元々外来の病気で、インド発の最初の世界的大流行は、文政5(1822)年に日本へも及びました。明治時代になると人の移動が増え、行動範囲も広くなり、数年おきに国内で数万人単位の患者が発生するようになりました。明治12(1879)年の大流行では、全国で16万人以上がコレラに感染し、死者も10万人を超えました。愛知県でも流行したため、県はコレラ対策として衛生行政に力を入れていきます。
国内でのコレラの流行は明治時代中期でほぼ終息しますが、コレラへの対処のための法令や制度を定めることによって、近代の衛生行政が整備されていったことから、「コレラは衛生行政の母」ともいわれます。
  • 1 薩州暴徒征罸凱旋兵隊通行留 2巻(明治10年)
    1 薩州暴徒征罸凱旋兵隊通行留 2巻(明治10年)
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  • 2 甲第93号 虎列刺病予防方心得(明治12年)
    2 甲第93号 虎列刺病予防方心得(明治12年)
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  • 3 甲第122号 虎列刺病予防心得(明治12年)
    3 甲第122号 虎列刺病予防心得(明治12年)
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  • 4 乙第180号 虎列刺病流行ニ付各学校等適宜休暇(明治12年)
    4 乙第180号 虎列刺病流行ニ付各学校等適宜休暇(明治12年)
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  • 5 甲第107号 虎列刺病流行中吐瀉ノ証アル者最寄警察分署ヘ可届出(明治12年)
    5 甲第107号 虎列刺病流行中吐瀉ノ証アル者最寄警察分署ヘ可届出(明治12年)
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  • 6 甲第18号 流行病諭達(明治13年)
    6 甲第18号 流行病諭達(明治13年)
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  • 7-1 甲第40号 愛知県町村衛生委員設置法(明治13年)
    7-1 甲第40号 愛知県町村衛生委員設置法(明治13年)
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  • 7-2 甲第40号 愛知県町村衛生委員事務取扱心得(明治13年)
    7-2 甲第40号 愛知県町村衛生委員事務取扱心得(明治13年)
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  • 8 (名古屋区園井町衛生委員諦認)(明治15年)
    8 (名古屋区園井町衛生委員諦認)(明治15年)
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赤痢と腸チフス、スペイン風邪解説
明治時代中期、愛知県内での天然痘やコレラの患者は少なくなりました。しかし、明治25(1892)年頃から赤痢と腸チフスが代わって流行するようになり、明治時代末頃まで流行は続きました。愛知県では特に赤痢が流行し、本庁や郡市役所、警察署に赤痢予防のための人員を配置するなど、蔓延防止に取り組みました。
時代は下り、第一次世界大戦末期にはヨーロッパ各国で「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザが流行しました。これは、20世紀最大のパンデミック(世界的大流行)となり、死亡者は全世界で2,000万人とも4,000万人ともいわれています。
このインフルエンザは、当時の日本では「流行性感冒」と呼ばれ、大正7(1918)年8月から同10年7月にかけて3度流行しました。内務省の推計では、全国で2,300万人以上が感染し、約38万人が死亡したとされています。

1 津島牛頭天王社

この絵図には、津島牛頭天王社(つしまごずてんのうしゃ)が描かれています。
津島神社(津島市)は古くは津島牛頭天王社と呼ばれ、京都の八坂神社と並ぶ疫病退散を祈る社として、人々の信仰を集めていました。
 
E12-12 尾張名所図会 前編7 明治43年刊(知多郡役所文書)

2 張州府志之内祇園会之事

ここには、熱田南新宮社(熱田神宮境内の摂社)で毎年6月5日に行われた祇園会(ぎおんえ)について書かれています。祇園会は天王祭、祇園祭、大山祭とも呼ばれました。
寛弘年中(平安時代)に熱田駅での疫病流行により疫神を祭り、文明年中(室町時代)に山車を飾って童子の舞を行う祭式が定められ、山車に神木や木偶人形、花を飾り、雅楽を演奏するなど、当時の華やかな祭礼の様子が記されています。

W21-191 張州府志之内祇園会之事(名古屋市大塚三右衛門家文書)

3 告第73号 禁厭祈禳ノ儀ニ付心得方ヲ示ス(明治16年)

「愛知県布達類聚」は、明治4(1871)年から同19年にかけての布達類を整理したもので、現在の「愛知県公報」の前身にあたる資料です。
明治時代、政府は、医師の診察を受けている場合に限り、禁厭(きんえん:まじない)や祈禳(きじょう:お祓い)を受けることを許可していました。
告第73号では、無稽(でたらめなこと)の説を唱えて医療を妨害する行為を禁止し、そのような行為があれば警察署へ届け出るように命じています。当時の警察は衛生思想の普及や伝染病の予防活動に努めていました。

D12 愛知県布達類聚 明治16年[2]

4 県令第6号 天然痘ニ罹リ痘瘡神棚抔ト称ヘ赤飯等ヲ供ヘル者ハ消毒ノ上焼棄セシム(明治25年)

痘瘡神は天然痘をもたらすと信じられていた神で、祈ると天然痘を免れたり軽減してくれたりするといわれていました。また、天然痘から逃れるために、痘瘡神が好むとされる赤で身を包んだり、家の中を赤で飾ったりする風習が、江戸時代の中期から見られました。
県令第6号では、痘瘡神の神棚へ赤飯を供えて祈祷した後に、赤飯を路傍(みちばた)に捨てないように注意しています。赤飯は病の伝播の媒介となる可能性もあるため、消毒の上、焼却するよう求めています。明治25(1892)年になっても、痘瘡神を信仰する風習が続いていました。

D26 愛知県公報 明治25年

5 愛知県風俗習慣迷信調査書(昭和24年)

この資料には、県内の風俗や習慣、迷信を調査した結果が記されています。病気の予防に関するものもあり、例えば、名古屋市西区地方では「玄関の鴨居におしゃも(しゃもじ)又はおなす(茄子)をぶらさげておくと麻疹並に疫病の予防となる」と言われていることに対して、一種の迷信に起因するとして、「速に打破すべきである」との意見が付されています。

A30653 愛知県風俗習慣迷信調査書(昭和24年) 衛生部総務課

1 種痘接種時期について達(明治4年)

「御触留」は、明治2(1869)年から同5年の間に名古屋藩(県)で作成された布告や藩内人事などを記録した資料です。
この資料では、種痘を受ける時期を春だと思い込んで時期を誤る者もいることから、生まれて100日から200日までの間の子どもに種痘を受けさせることを強く勧めています。

E2-6 御触留 第8巻(名古屋藩庁文書)

2 第7号 病院種痘日割之事(明治8年)

第7号は、愛知県病院(仮病院)の種痘接種日(2月から12月まで、月5回)を通知したものです。料金は子ども1人につき6銭2厘5毛ですが、極貧者は区戸長の証書を持参すれば無料で実施するとしており、種痘を積極的に受けるよう促していました。

D1、D19 愛知県布達類聚 明治4年~8年

3 無号 種痘告諭(明治8年)

無号では、天然痘は治癒しても「終身ノ病根」(痘痕:あばた)が残るか「廃人」となり、重症の場合は死亡すると天然痘の恐ろしさを伝えるとともに、種痘が予防の「最大一ノ善良術」であるとしています。

D1、D19 愛知県布達類聚 明治4年~8年

4 第128号 天然痘流行ニ付予防ノ事(明治9年)

明治9(1876)年6月頃、愛知県では海東郡や海西郡、加茂郡内で天然痘が流行しました。
第128号では、県内で流行の危惧があることから、「種痘済ノ者ト雖モ大人小児トモ至急悉ク種痘可致」と大人から子どもまで種痘を奨励しています。また、「万一心得違ヲ以無稽ノ説ヲ唱ヘ若クハ他人ヲ蠱惑スル等ノ者ハ違式詿違ヲ以テ論シ科申付候」とあり、根拠のない風説を流す者を罰するとしています。

D3 愛知県布達類聚 明治9年、10年上[2]

5-1 第129号 天然痘流行ニ付種痘着手ノ事(明治9年)

第129号では、種痘を迅速に接種させるために、寺院などを借りて仮設の種痘所を設け、種痘免許を持つ医師を出張させることとしています。また、免許医が少ない所では、免許医が一般の医師に種痘方法を教え、免許を取得させることとしました。その他、医師の給与や種痘料、種痘済の証書の発行などについても記されています。

D3 愛知県布達類聚 明治9年、10年上[2]

5-2 第129号 天然痘流行ニ付種痘着手ノ事(明治9年)

D3 愛知県布達類聚 明治9年、10年上[2]

6-1 甲第7号 天然痘流行ノ儀ニ付諭達(明治13年)

明治12(1879)年8月から翌年1月にかけて天然痘が流行し、この間の愛知県内の患者数は愛知郡や中島郡を中心として254人にのぼり、うち死亡者は90人で死亡率が3割を超えました。
甲第7号では、天然痘が蔓延し始めている状況を受け、この先爆発的に流行する可能性もあるとして、まだ種痘を行っていない子どもは勿論、再三種者も対象として種痘を行うよう求めています。再三種者とは、種痘が2回目、3回目の人のことです。

D7 愛知県布達類聚 明治13年[2]

6-2 甲第7号 天然痘流行ノ儀ニ付諭達(明治13年)

なお、甲第7号には別紙として、明治12年8月から同13年1月15日までの4か月半の天然痘患者の郡別罹患者数が掲載されています。

D7 愛知県布達類聚 明治13年[2]

1 張三石の招へい(明治4年)

この資料は、明治4(1871)年7月、仮病院と仮医学校を設立するにあたり、当時第三師団の軍医であった張三石(ちょうさんせき)を招へいした時のものです。張三石は、長崎のオランダ人医師ポンペに学んだ蘭方外科医でした。

E2-6 御触留 第6巻(名古屋藩庁文書)

2 仮病院の開業(明治4年)

この資料では、明治4(1871)年8月9日、名古屋藩を引き継いだ名古屋県が旧評定所に仮病院を開業し、病気の者は武士を始め農民、商人に至るまで全てに治療を行うとしています。仮とあるのは、後に本格的な病院を新設する意図があったと思われます。

E2-6 御触留 第6巻(名古屋藩庁文書)

3-1 名古屋県病院規則(明治4年)

名古屋県は、万民無病が殖産興業の基盤形成の上で必須であるとして、貧富の差や士農工商の身分によらず万民の健康を実費のみで保証しようとしていました。

E2-6 御触留 第7巻(名古屋藩庁文書)

3-2 名古屋県病院規則(明治4年)

この規則では、「寄宿病人」(入院患者)の入院費は1日1人銀15銭、「通ヒ病人」(外来患者)の診察料は無料としています。薬代は1日分銀3~5銭までとしており、貧民はこの例によらないと定められていました。

E2-6 御触留 第7巻(名古屋藩庁文書)

4 仮病院廃絶(明治5年)

明治4(1871)年に開設された仮病院は、同5年2月に廃止されました。

E2-6 御触留 第8巻(名古屋藩庁文書)

5 無号 病院医学校ヲ起シ独逸人等傭入之事(明治6年)

無号では、養生方法の知識を得て適切な医療を受けることは「万民ノ幸福」であり、そのためには病院の設置や医療を提供する医師の育成が必要であると述べています。そして、西本願寺掛所内に仮病院を設置し、佐賀県好生館病院教師を退任したヨングハンスと足立盛至(もりよし)を招き、患者の住まいの遠近や貧富を問わず治療を行うとしています。

D1、D19 愛知県布達類聚 明治4年~8年

6-1 院校将来須要ノ諸件(明治13年)

明治13(1880)年5月、公立病院長心得・公立医学校長心得となった後藤新平は、病院経営を引き継いだほか、愛知県内の衛生改善など治療以外の改革や、病気予防における衛生警察の重要性を指摘しました。また、健康警察医官の設置や衛生警察法の施行を提案するなど、県の衛生行政の発展に貢献しました。
この資料には病院や医学校の改善構想が書かれており、医療機器や病室、典籍縦覧所の整備、開業医への教育などが必要であると県に提言しています。同16年1月、後藤は内務省衛生局への転任のために退職しますが、後にこの構想の幾つかが実現しています。

奥州市立後藤新平記念館蔵 後藤新平関係文書 
地方医学教育改正之意見 愛知県公立病院及医学校第一報告中(国立国会図書館資料提供) ※紙焼き

6-2 院校将来須要ノ諸件(明治13年)

奥州市立後藤新平記念館蔵 後藤新平関係文書 
地方医学教育改正之意見 愛知県公立病院及医学校第一報告中(国立国会図書館資料提供) ※紙焼き

1 薩州暴徒征罸凱旋兵隊通行留 2巻(明治10年)

明治10(1877)年2月に始まった西南戦争では、鎮圧のために名古屋鎮台からも兵隊が動員され、九州方面などへ出征しました。8月に上海から長崎に伝播したコレラは各地に蔓延し、多くの従軍者が感染しました。また、終戦後も兵士の移動によりコレラが全国へと広がったため、蔓延防止の措置がとられました。
この資料は、明治10年10月、陸軍兵士が凱旋する際に熱田に宿泊した時の記録で、熱田の宿駅には数日間で総計3,000人以上の兵士が分宿しました。
その中には、県令代理の国貞廉平から第一区々戸長に宛てた文書があります。兵士の中にコレラ感染者がいる可能性があるため、患者がいた場合はその治療と消毒、蔓延予防を厳重に行うようにと陸軍省から達があったので、警察と協力して不都合のないよう取り計らうようにという内容です。このように予防対策を徹底した結果、熱田でのコレラの蔓延は防止されました。

E4-2 薩州暴徒征罸凱旋兵隊通行留 2巻(愛知県第一区会所文書)

2 甲第93号 虎列刺病予防方心得(明治12年)

明治12(1879)年、愛媛県や大分県で流行したコレラは兵庫県、大阪府、京都府へと伝播し、愛知県でも流行しました。
甲第93号では、コレラが流行している地方への旅行を控えることや、コレラ流行時には諸興行や祭事など人が多く集まる行事を中止するなど7項目のコレラの感染予防の具体的な行動を伝えています。

D4 愛知県布達類聚 明治12年[1]

3 甲第122号 虎列刺病予防心得(明治12年)

甲第122号では、コレラ流行地から来た船舶の乗組員に対し、指定の宿屋での5日間の滞在と外出禁止を定めています。また、旅先の宿屋でコレラを発症した宿泊客に対し、その宿屋での7日間の滞在と外出禁止を定めています。なお、その間の宿泊費と食費は官費から支給するとあります。

D4 愛知県布達類聚 明治12年[1]

4 乙第180号 虎列刺病流行ニ付各学校等適宜休暇(明治12年)

近畿地方でのコレラの流行は、愛知県でも特に名古屋区内へ波及しつつありました。
乙第180号では、各学校は夏季休業の時期でもあり、予防のために適宜休校にしてよいと伝えています。

D4 愛知県布達類聚 明治12年[1]

5 甲第107号 虎列刺病流行中吐瀉ノ証アル者最寄警察分署ヘ可届出(明治12年)

甲第107号では、コレラに罹(かか)っても病名を隠して警察に届け出をしないことがあるので、蔓延防止のためにも吐瀉(としゃ)の症状がある者は警察分署へ届け出るようにと通達しています。
当時、行政は感染拡大しているコレラ患者の隠匿を取り締まっていました。

D5 愛知県布達類聚 明治12年[2]

6 甲第18号 流行病諭達(明治13年)

甲第18号では、コレラの病毒は吐瀉(としゃ)物の中に存在し、土の中に浸透して飲水に混ざることで人に感染するとしています。そのため、不潔物を掃除し、厠(かわや:トイレ)や下水、井戸の傍(そば)など設備が粗悪なものは修繕を行い、コレラの予防に努めるよう求めています。

D7 愛知県布達類聚 明治13年[2]

7-1 甲第40号 愛知県町村衛生委員設置法(明治13年)

コレラが大流行した明治12(1879)年、内務省が県に対し衛生課や衛生委員の設置を指示するなど、衛生行政が強化されました。
翌年4月、県は「愛知県町村衛生委員設置法」と「愛知県町村衛生委員事務取扱心得」を定め、各町村に2人の衛生委員を置きました。衛生委員は、衛生関係の調査や清潔さを保つための清掃の徹底と整備、伝染病の予防対策など、公衆衛生の確保に取り組みました。

D6 愛知県布達類聚 明治13年[1]

7-2 甲第40号 愛知県町村衛生委員事務取扱心得(明治13年)

D6 愛知県布達類聚 明治13年[1]

8 (名古屋区園井町衛生委員諦認)(明治15年)

この資料は、元名古屋県士族大槻俊造が名古屋区園井町(現名古屋市中区)の衛生委員に任命された際のものです。

W3-07 (名古屋区園井町衛生委員諦認)(大槻家文書)

1 諭達第2号 赤痢病予防専務員配置(明治27年)

明治25(1892)年、愛知県では1,709人が赤痢に感染し、361人が死亡しました。翌年も1,625人が感染して430人が死亡しており、同じく27年も赤痢患者は増加傾向にありました。
諭達第2号では、本庁や郡市役所、警察署に赤痢病予防専務員を置いて予防消毒を厳重に実施し、各自の摂生は勿論、予防専務員の指示に従って赤痢の感染を防ぐようにと伝えています。

D28 愛知県公報 明治27年

2-1 事務功程書(明治31年)

東加茂郡役所は、明治11(1878)年から大正15(1926)年まで東加茂郡足助町(現豊田市)に置かれ、郡内町村の監督や独自の郡行政を行いました。
この資料は、東加茂郡役所の郡治事務の実績報告書で、中には赤痢や腸チフスに関する記録が含まれています。
明治31(1898)年の記録には、同郡役所管内で発生した赤痢と腸チフスの患者数と死亡者数、その対処として検疫委員事務所の設置、清掃や飲食物への注意、患者の症状の調査、講話会の開催、消毒や大掃除の実施などが記されています。

E17-2 事務功程書 明治27-34年(東加茂郡役所文書)

2-2 事務功程書(明治31年)

E17-2 事務功程書 明治27-34年(東加茂郡役所文書)

3 諭告第5号 流行性感冒ニ付注意方(大正7年)

諭告第5号では、今回流行している特殊な感冒は伝染力が猛烈で死者も出ており、自衛に努めるように求めています。
この感冒は、患者の喀痰(かくたん:吐いた痰)や唾液、鼻汁などにより伝染し、呼吸器から侵入するため、時々うがい薬でうがいをして予防することや、室内を清潔に保ち空気を入れ替えることなどの7つの具体的な予防方法を示しています。

D63 愛知県公報 大正7年[2]

4 諭告第1号 流行性感冒豫防(大正9年)

諭告第1号では、外出時には必ず呼吸保護器(マスク)を使用することや、なるべく人混みに立ち寄らないことなどの流行性感冒予防の具体的な方法を5項目示しており、これらの予防方法を遵守して自衛に努めるように促しています。また、手作りマスクの作製も勧めており、作り方や材料代も記されています。

D66 愛知県公報 大正9年[1]

5-1 流行性感冒豫防ニツイテ(昭和18年度)

この資料は、第二次世界大戦末期に北設楽郡田口町国民健康保険組合と大日本婦人会田口町支部が、大正期に流行したスペイン風邪を教訓として愛知県衛生課の示した流行り病の予防方法を知らせたものです。
敵国であるアメリカやイギリスで、「スペイン風邪(流行性感冒)」と思われる「猛烈ナ呼吸器系伝染病」が流行していることから、予防を呼びかけています。
 
N48 受付文書綴 昭和18年度 田口農林学校

5-2 流行性感冒豫防ニツイテ(昭和18年度)

N48 受付文書綴 昭和18年度 田口農林学校

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