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平成30年度企画展 明治150年記念 公文書で見る愛知県の誕生と文明開化

平成30年度の企画展は、平成30年(2018)が明治元年(1868)から起算して満百五十年に当たることを記念して、「明治150年記念」として開催し、明治時代に作成された公文書を中心に、愛知県が誕生するまでの経緯と、当時の人々の暮らしを大きく変えた文明開化の様子について展示しました。
このデジタル展示室では、当時展示した資料の中から県庁文書や藩庁文書を中心に紹介します。人々の生活が明治維新を境に大きく変わっていった様子をお楽しみください。

愛知県の誕生解説
戊辰戦争の勝利後、明治新政府は旧幕府領や幕府方の諸大名の領地を没収や削減して直轄地としましたが、他の地域では諸藩の支配が続いていました。
明治2年に尾張藩を含めた諸藩が版籍奉還を建白し、すべての版(領地)と籍(領民)が新政府の支配下に置かれ、諸大名は旧領地の地方官である知藩事に任命され、藩政を担いました。
明治4年7月には廃藩置県が行われ、現在の愛知県域では12県が藩域をそのまま継承しましたが、知藩事(旧藩主)は免官となって東京集住を命じられ、代わって新たに任命された府知事や県令が赴任しました。その後、三河地方では10県を廃して額田県とし、三河国全域と尾張国知多郡を管轄しました。一方、尾張地方では2県が廃され、尾張国7郡を管轄する名古屋県が設置されました。明治5年4月に名古屋県は愛知県と改称され、同年十一月には額田県が廃されて愛知県と合併し、現在の県域の愛知県が誕生しました。
文明開化の様子解説
文明開化とは、西洋文明を積極的に模倣し、急速に日本が西洋化や近代化していった明治初期の風潮です。
牛鍋や洋服などの新しい社会風俗が広まり、明治政府によって西洋を模倣した政策も数多く実施されています。例えば学制などは国民に影響を及ぼし、旧来の生活を急激に変えていきました。
愛知県でも、新しい慣習や規範などを普及させる様々な布達類が出されたほか、県内各地で新しい技術が普及しました。

1 今般版籍奉還之儀ニ付及 名護屋藩知事被仰付候事(明治2年)

明治2年6月、版籍奉還が天皇に認められ、徳川三位中将である藩主徳川徳成(ながなり)(後の義宜(よしのり))が名古屋藩知事に任ぜられています。

E2-6 御触留 1巻(藩庁文書)

2 藩制につき知藩事趣意書(明治3年)

明治3年9月、諸藩を政府直轄地と同等の基準に基づいた制度に統一するため、政府から藩制が布告されました。
これを受けて、同年※閏10月に名古屋藩では、3回目の藩制改革が行われました。この資料では、諸藩が全て朝廷(政府)の役所であり、藩の職員は朝廷の役人であると示されています。
※旧暦で、季節と暦月とを調整するため、12カ月のほかに加えた月。

E2-14 藩制一巻 5巻(藩庁文書)

3 三河絵図(元豊橋県管轄地絵図)(明治4年頃)

この資料は豊橋県の管轄図で、豊橋県管轄の村が黄色で示されています。
廃藩置県から額田県が成立するまでの約4ヵ月間だけ存在した豊橋県は、豊橋藩の藩域を継承していました。三河地方には他に9つの県と政府の直轄地があり、行政区域が非常に錯綜していましたが、額田県の成立によりこの状態は解消されました。

E2-17 三河絵図(元豊橋県管轄地絵図)(藩庁文書)

4 藩ヲ廃シ県ヲ被置候事(明治4年)

辛未(明治4年)7月、廃藩置県により名古屋藩が廃されて名古屋県が置かれ、名古屋藩知事であった徳川慶勝(よしかつ)は免官されました。

E2-6 御触留 6巻(藩庁文書)

5 井関権令着任につき元名古屋県達 (明治5年)

明治5年2月、名古屋県権令(ごんれい)に着任した井関盛艮(いせきもりとめ)は、元名古屋県と犬山県の両県から新名古屋県に土地や人民、諸文書類を引き継ぎました。

E2-6 御触留 8巻(藩庁文書)

1 愛知県布達 愛知県学区区分(明治6年)

明治6年5月、愛知県では学区を設定して学制に基づく学校の設置をしました。県内を10の中学区に分け、更に1つの中学区を210の小学区に分けて、1つの小学区に小学校を1校の割合で合計2,100校を設置する計画でした。
しかし、当面は開設済みの430箇所の義校を基に600校を目標に小学校の設立計画を立てました。

W22-280 愛知県布達 愛知県学区区分(湯浅氏収集新聞関連資料)

2 学校新築願(明治10年)

学制公布後、学校が設置された当初は多くが寺院や民間の住宅を借りて校舎としていましたが、次第に校舎の新築が行われるようになりました。
この資料の桜町学校(現在の名古屋市立名城小学校)も、はじめは安清院(現名古屋市中区所在)という寺院を借用していましたが、子どもの増加により明治10年に学校新築願を出しています。資料は、その絵図面です。

E22-45 転校新築願留(愛知県庁文書)

3 愛知週報第37号付録 違式詿違條令図解(明治6年)

違式詿違(いしきかいい)条例は、風俗・交通・衛生などの日常的な秩序維持に関わる軽微な罪の刑罰法です。夜間の無灯火での車引きや乗馬、蓋なしでの糞桶運搬などの禁止事項を定め、旧来の暮らしの慣習を排除することで、文明国にふさわしい社会規範などを普及させました。
全国で最初の違式詿違條令は、明治5年に東京府で制定されました。これを雛形として、他の府県もそれぞれの実情に応じて加除や変更を行い、明治6年7月に太政官布告により各地方の違式詿違条例が制定されました。この資料は、愛知県の違式詿違条例の内容を絵入で解説したものです。

W8-10-6 愛知週報第37号付録 違式詿違條令図解(鬼頭勝之氏寄贈文書)

4 新聞購読の奨励(明治4年)

明治になって行われた改革を伝えるためには新聞が有効でした。そこで、新政府や府県は、新聞発行の援助やその普及活動も積極的に行いました。
明治4年12月、名古屋県は新聞の普及を奨励する布達を出しています。新聞は人々の知識を深めるために重要であるとして、名古屋新聞を発売ごとに各区や村で1冊子求めることを強く勧めています。

E2-6 御触留 8巻(藩庁文書)

5 名古屋新聞 第4号(明治5年)

名古屋新聞は、明治4年11月に創刊された愛知県で最初の新聞です。木版刷で月3回発行されました。この時期の新聞は政府広報の役割を期待されており、政府の布令や命令の報道に重点がありました。この名古屋新聞第4号にも、役人の人事や死んだ牛馬の売買に関する布令などが記されています。他にも買うと良縁が得られるとされた懸想文や御雇外国人についての記事なども掲載されています。

W22-9 名古屋新聞 第4号(湯浅氏収集新聞関連資料)

6 制服雛形(明治3年)

この制服雛形は明治3年11月に太政官から布達されたものです。官僚や軍隊の制服が洋装となり、民間にも徐々に洋装が普及していきました。

E2-6 御触留 5巻(藩庁文書)

7-1 豊川鉄道布設免許状請書進達案伺(明治29年)

豊川鉄道株式会社は、明治26年に地元の有力者らが敷設免許を出願し、明治29年に私設鉄道会社として設立されました。明治30年に豊橋~豊川間、明治33年に吉田~長篠(大海)間が開通し、主に豊川稲荷への参詣客を運びました。
この資料は、豊川鉄道の敷設免許状請書と車両の図面で、明治29年1月に免許状が下付されたことを受けて、3年以内に敷設工事を竣工するよう記されています。なお、会社はその後名古屋鉄道と合併し、現在路線はJR飯田線の一部となっています。

270-1 鉄道会社書類(愛知県庁文書)原本:国文学研究資料館

7-2 豊川鉄道布設免許状請書進達案伺(明治29年)

270-1 鉄道会社書類(愛知県庁文書)原本:国文学研究資料館

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