解読問題
 

500両拝借の嘆願

解説

この史料は、幕末に活躍した尾張藩士田宮如雲(じょうん)の実家である大塚三右衛門家に伝来したもので、山城国伏見(現京都市伏見区)の松屋伊助が作成した嘆願書です。
伊助は、嘉永元年(1848)以前から尾張藩士が大坂へ移動する際の宿泊や船の手配を行っており、藩主が京都に滞在する際には「御旅館」へ召し出されるなど、尾張藩の用達を務めていました。
慶長16年(1611)、京都の豪商角倉了以(すみのくらりょうい)が京都の中心部と伏見を結ぶために行った高瀬川開削工事によって、京都と大坂が水路で結ばれました。伏見は、過書船(かしょぶね)とよばれる幕府公認の船や三十石船、二十石船などが行き交う港町となりました。また、参勤交代の西国大名の発着地となり、本陣や脇本陣が置かれ,宿場町としてもにぎわいました。尾張藩や薩摩藩・土佐藩等の藩邸も置かれました。
慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令が発せられ、明治新政府が設立されたことにより、江戸幕府は廃絶となりました。新政府は天皇を頂点とした総裁・議定・参与によって運営されることになり、前々藩主で尾張藩の実権を握っていた徳川慶勝(よしかつ)は議定の一人に任ぜられ、如雲は参与に任ぜられました。また、如雲は京都市中取締と伏見取締を兼務し、如雲の甥である大塚亀治郎(儀兵衛)も、市中取締懸参与助役頭取に任ぜられました。この頃、京都市中取締参与役所は伏見の尾張藩邸内に置かれていました。
慶応4年1月3日に始まった幕府軍と新政府軍による鳥羽・伏見の戦いでは、旧伏見奉行所をはじめ伏見の船宿や町家の多くが焼失しました。伊助が状況を報告するために「御旅館」等へ出かけて留守にしている間に砲声は激しくなり、伊助が営んでいたと思われる船宿も被災し、衣類や諸道具も含めて一つ残らず焼失してしまいました。そこで伊助は、慶勝が滞在していたと思われる知恩院御殿まで赴き、尾張藩御用の存続を目的とした居宅等の建築(仮普請)費用として金500両を借用したいと嘆願したのです。
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