解読問題
 

尾張藩士の謹慎処分

解説

この文書は尾張藩から愛知県に引き継がれた「名古屋藩庁文書」のうち、明治3年(1870)作成の「惣帳届留」にあるもので、勧進相撲に出場した尾張藩士の謹慎処分に関するものです。
この頃は、王政復古、戊辰戦争、版籍奉還と推移してきた激動期の真只中にあたり、藩政改革などによって大半の藩士たちは持ち高を減らされ、失職した者も多く家計は苦しくなっていました。「惣帳届留」には、改革に不満をもつ藩士の不穏な動きを取り締り処分した案件も見受けられます。
この文書の主役である森本熊之丞の兄で当主の内蔵三は、明治2年作成の「尾張分限帳」(『新修名古屋市史』)によれば、大御番組一番馬場三十郎組の陣場奉行50俵取とあり、また本館で複製本を所蔵する「尾参士族名簿」によれば、当時40歳前後であったことが分かります。
御一新の只中、『尾張名所図会』にもみえる大須の清寿院境内では角力(相撲)興行が行われていました。当時、三都や名古屋など主な都市では、社寺修築などの経費を集めるという趣旨から、木戸銭を取って見物させる勧進相撲が開催され、庶民の娯楽として大いに人気を博していました。文書には熊之丞が「花菱熊吉」というしこ名を名乗って土俵に上がっていたとあります。観衆の大喝采を浴びたに違いない彼のこの行為は、藩士にあるまじき事として問題にされ、謹慎100日間の処分を受けることになりました。
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