解読問題
 

御能拝見の心得書

解説

この史料は、名古屋城で催される能楽の観覧(御能拝見)を許された者が当日とるべき行動について記した心得書です。
江戸時代に海東郡蟹江新田村(現海部郡蟹江町)で庄屋を務めた戸谷家に伝来し、安政6年(1859)に、尾張藩15代藩主の国入りを祝って行われた御能拝見に庄屋である戸谷逸五郎が参加した時のものです。
御能拝見は藩主の代替わりなどに行われ、尾張藩では、記録にあるものでも20回を超えており、藩士・寺社等約4000人、町民や農民約3000人が観覧を許された時もあるなど、藩の一大行事でした。
尾張藩の支藩である美濃高須藩主であった松平義比(よしちか)は、安政5年に15代尾張藩主徳川茂徳(もちなが)となりますが、翌年、藩主として初めて国入りした際に御能拝見が行われました。12月1日、2日、4日に行われた御能拝見では、逸五郎は二日目に参加しています。
幕末の尾張藩の財政は苦しく、富裕な町人や村の有力層である庄屋等に対して調達金といった名目の献金を課していました。蟹江新田村の庄屋であった戸谷家にも、度重なる藩からの献金要請に応じていた史料が残っています。藩からの献金の求めに応じた町人や農民に対しては、藩はその見返りとして苗字・帯刀、宗門自分一札などを許すといった特権を与えており、御能拝見もその一つでした。
御能拝見への参加許可を通達したのは、許可された町人・農民の居住地を管轄する代官所などです。蟹江新田村を管轄していたのは佐屋代官所で、当時佐屋代官を務めていた須賀井重五郎が、戸谷逸五郎をはじめ管轄下の有力農民に御能拝見への参加許可を通達したと思われます。須賀井は逸五郎らに、当日名古屋城に入る際の服装や行動について事前に知らせて無礼のないようにするために、こうした心得書を記して渡したと思われます。
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