解読問題
 

盗賊の処罰

解説

この文書は、尾張藩士大塚三右衛門家の文書「盗賊御仕置御定」の内容の一部です。尾張藩の刑罰法規であった寛政6年(1794)制定の、「盗賊御仕置御定」の主要部分の写しと考えられます。天保14年(1843)5月付けで最後の追加記載が見られます。こうした「御定」は寺社・勘定・町奉行所など特定の部署に置かれ、伝本も少ないことから大変貴重なものです。 
掲載部分は金銭の窃盗についての規定です。被害額に加えて、「初犯」、「出来心」などの情状により、具体的な刑罰が定められています。また、再犯、累犯には重い刑罰が課され、最終的に「四犯、盗みの多少によらず死罪」と厳罰主義となっています。処罰方法を記した【中略①】以降には、老人・子供・御扶助の者・女性といった「敲(たた)きがたき者」には、敲きに替えて牢への収監を科すことが記されるなど、弱者等への一定の配慮がうかがえ、厳罰主義との対照が興味深いところです。なお、懲役・禁固は、現在では一般的な刑罰ですが、当時の牢は、未決囚を留め置く所で、刑罰としての入牢はほとんどなく、現行刑法とは大きな違いがあります。
また、【中略①】以降には、「出来心」、「追放」など、動機や刑罰等の定義や方法がこと細かく記述されています。ここでは、「敲」と「入墨」の定義の部分を掲載しました。
「敲箒」(笞(ち))は、尾張藩では新藁を巻き上げて作ると記されていますが、江戸では割竹を芯に皮とこよりを巻いて作製しました。「入墨」についても、尾張藩では筋違い二筋となっていますが、江戸は廻輪二筋となっており、領主(藩)によって異なっています。
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