解読問題
 

和宮下向と尾張の村

解説

この史料は、江戸時代に海東郡蟹江新田(現海部郡蟹江町)で庄屋を務めた戸谷家の文書「身分江付願達留」の内容の一部です。戸谷逸五郎が文久3年(1863)に佐屋代官所へ提出したものです。
幕末の複雑な政治情勢の中、文久元年(1861)、公武合体を唱える幕府からの再三の要請により、時の孝明天皇の妹である皇女和宮は、14代将軍徳川家茂のもとへ降嫁することになりました。
和宮は同年10月20日に京都を出発しました。下向には中山道が使われ、幕府は尾張藩に、中山道21宿間の沿道警備と宿泊6か宿、昼休み7か宿での接待を命じました。
和宮一行は京方・江戸方の警護の藩士や人足等を合わせて、人馬数万に及ぶ前代未聞の大通行となったため、従来の宿駅制度では対応できず、尾張藩領全域から蒲団、食器、諸道具類が集められました。
史料の中で、戸谷逸五郎は藩の指示に従い、惣裁役として各村から蒲団等の道具を昼夜なく集めて荷造りし、10月14日に村を出発し、17日には中津川宿に到着して道具を配備したこと、和宮通行の際には人足の取りまとめ役を務めたこと、和宮が通行(史実では10月29日)した後、道具を受け取り、11月5日に中津川宿を出発し8日に帰村し、合計54日間費やしたことを報告しています。
諸道具の借り賃や人夫賃などは多くが藩の負担とされ、知多半島の南部に至るまで尾張藩領の村々は重い負担を強いられました。当面の必要経費は庄屋などが立て替え、後に藩から支払われましたが、他村の事例では3分の2ほどが村の負担になっています。
情報不足、準備期間不足の中で、尾張の村々は万難を排して責任を果たしました。ただ、経済的負担は極めて大きく、幕末に向かう動乱の時代に農村はますます疲弊していきました。
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