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令和5年度企画展 新・収蔵資料展~古文書にみる尾張の町と三河の村~

令和5年度の企画展では、『愛知県史』編さん事業における調査を経て、当館に新たに収蔵された2つの資料群を紹介しました。名古屋橘町(現名古屋市中区)の商家に伝来した「名古屋市吉田家文書」と、西杉山村(現新城市)の庄屋を代々務めていた今泉忠左衛門家に伝来した資料を中心とする「新城市榊原淳一郎氏収集資料(洤行館文庫)」です。

橘町と杉山村解説
橘町は、名古屋城から熱田までを貫く本町筋にある町の一つです。城下南端に位置し、南は古渡村に接しています。城下の入口として大木戸が設置され、番人が警備につきました。
杉山村は、「三河国村々高附」や「天保郷帳(三河国郷帳)」においては、「杉山村」1村として公式に記載されています。しかし、杉山村を支配していた交代寄合旗本菅沼家は、寛永頃(1624~44)から西杉山村と東杉山村の2村として扱うようになり、それぞれに庄屋が置かれていました。
吉田家の商い解説
吉田家は、橘町の一角に店を構えた油商人で、屋号は高麗屋です。当主は代々新三郎(隠居後は「新蔵」)を名乗りました。初代新三郎が始めた油商売は都市での灯し油の需要が高まった18世紀中頃から後半にかけて順調に成長していきました。文化6(1809)年に油取締役に任命されて以降は名古屋の油問屋(仕入油屋)仲間の中心的役割を果たしました。油商売の他、新田経営・借家経営・金融事業を行っていました。
吉田家の家格・由緒解説
吉田家は尾張藩から油取締役に任命され、また御勝手御用達など尾張藩の御用達を務め、その見返りとして、藩から扶持米を貰い、苗字帯刀・宗門自分一札・年頭御目見などの特権が認められました。
検地と年貢解説
検地では、米が1年間にどれだけ生産できるか(村高)を調査しました。検地によって田畑や屋敷の所有者として認定された本百姓(高持百姓)は、名請人として検地帳に記載され、領主に対して年貢・諸役・夫役を負担しました。領主は、米の収穫前に役人を派遣して実際の収穫量を調べ、現在の税率にあたる「免」を決め、年貢高を決定しました。年貢高が決定すると、領主は村に対して上納する年貢高を記した年貢免状を交付しました。村では免状が交付されると、検地帳に名前を記載された本百姓ごとに年貢を割り振りました。
裁許絵図の世界解説
江戸幕府は、私的な紛争は当事者間で話し合って解決する内済を原則としていましたが、内済がうまくいかなかった際は、原告・被告双方の主張を判断して判決を下しました(「裁許」)。林野の境界や所有権・入会用益権をめぐる山論においては、裁許絵図が作成されました。
町と村の社会・文化解説
吉田家文書と榊原淳一郎氏収集資料を通して、居住する地域・家の性格や支配のありようが異なる当時の社会や文化をみました。

1 橘町と杉山村

「橘町」の町名は尾張藩2代藩主徳川光友が命名したものです。光友は、特権として橘町の町人に古鉄・古道具商売を許可しました。また、橘町に芝居の興行権を与えました。
杉山村は、東海道の脇往還である本坂通嵩山(すせ)宿の助郷村でもあり、参勤交代や幕府役人が本坂通を通行する際には、人足・馬・駕籠を差し出しています。杉山村として割り当てられた人馬等を西杉山村と東杉山村で割り振っています。

「宝暦十二午改名護屋路見大図(部分)」および「元禄三河国絵図(部分)」(愛知県図書館蔵)

1 商売始まりの記録

初代新三郎が油商売を始めた経緯を知ることができる資料です。巾下(幅下、現名古屋市西区)の油屋彦兵衛のところで下男奉公をしていた新三郎は、得意先廻りの際に拾った大金が入った財布を、正直に落とし主に返しました。近くに住んでいた小出七郎兵衛は新三郎の行為に感心し、兄壺屋六兵衛の娘と新三郎が婚姻した際に金50両を渡します。この金を元手に新三郎は油商売を始めたと記されています。

(書付) 名古屋市吉田家文書06-00001-06

2 名古屋仕入油屋の油小売に対する申合せ書

名古屋の仕入油屋(油問屋)仲間の「定」で、名古屋の小座(小売)が仕入油屋から購入した油の代金を支払わず、不勘定(未払い)になっている状況に対応した資料です。小売油屋の内、不勘定の者とは取引をせず、勘定が済むまではその者の名前を仕入油屋仲間中へ張り出すことを、仲間で申し合わせた旨が記されています。文化8(1811)年には、27軒の仕入油屋仲間がいたことがわかります。

文化8年 定  名古屋市吉田家文書30-00076

3 熱田新田西組二十九番割三角の図

吉田家は熱田新田(現名古屋市熱田区・中川区・港区)に多くの土地を所有し、経営していました。購入・譲渡や借金の質流れとして新田を入手したと思われます。幕末には熱田新田西組の二十三番割・二十四~二十七番割(資料では「二十四七之割」と記載)・二十九番割を中心に土地を所有していました。地図には区画ごとに番号、面積、所有者が記されており、所有地が分散していることがわかります。

地図 名古屋市吉田家文書09-00016

1 代替りに伴う御勝手御用達格の継続願い

5代から6代への代替りに伴う御勝手御用達格の継続願いとその後の経過を記した記録です。天保10(1839)年に御勝手御用達を仰せ付けられ、嘉永2(1849)年までの11年間務めたことを始め、藩御用達の変遷を述べ、6代新三郎に御勝手御用達格を仰せ付けてほしいと願い出ています。後半には、願いが聞き届けられた旨と明治3(1870)年7月までの経過が記されています。

慶応3(1867)年 乍恐奉願上候御事 名古屋市吉田家文書18-00069-03

1 三河国設楽郡杉山村検地帳

三河国設楽郡杉山村の「検地帳」は、慶長9(1604)年に徳川家康の検地奉行青木勘右衛門が、杉山村の村高を調査した際に作成されました。検地帳の表紙や巻末には検地が行われた村名や実施日・担当役人などが記載され、帳面の中には検地の結果を元にして決定された村高や、村内の田畑・屋敷地について、1筆ごとに字名・地目・品位(上・中・下・下々からなる品質)・面積・分米・名請人などの情報が記載されました。

慶長9年 三州設楽郡杉山村御検地帳 新城市榊原淳一郎氏収集資料01-00030

2 東杉山村庭帳

村の年貢高が決定すると、領主は村が上納する年貢高を記した年貢免状を村に対して交付しました。村では免状が交付されると、検地帳に名前を記載された本百姓ごとに年貢を割り振りました。東杉山村では、実際に年貢を納入する際にその場で出納を記載登録した「庭帳」を作成しました。

享保7(1722)年 庭帳 新城市榊原淳一郎氏収集資料 10-00058

1(1) 山論裁許絵図(表)

裁許絵図は、表面を絵、裏面を文書の形式で裁許の内容を記しています。この山論は、寛永15(1638)年に当時の三河代官鈴木八右衛門隆政と鳳来寺の塔頭の一つである月蔵坊の僧侶の仲介により証文が取り交わされたのですが、再び争論となったものです。

元禄11(1698)年 (山論裁許絵図) 新城市榊原淳一郎氏収集資料01-00089-1

1(2) 元禄11年 山論裁許絵図(裏)

裁許絵図の裏面は裁許絵図裏書とも呼ばれ、近世の司法機関である幕府評定所の構成員(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)が署名・押印しています。

元禄11(1698)年 (山論裁許絵図) 新城市榊原淳一郎氏収集資料01-00089-1

1(1) 御触留

「御触留」「御触書」(以下、「御触留」と表記)は幕府や領主からの触を書き留めたものです。同じ安政5(1776)年のものでも、尾張藩が支配する名古屋の町方と、交代寄合旗本菅沼家が支配する三河の村方では、「御触留」の記載内容は将軍の死去を伝える点など一部共通の記事はあるもののほとんど異なっています。

安政3~5(1774~76)年 御用御触留 拾五番 名古屋市吉田家文書15-00022

1(2) 御触留

「御触留」「御触書」(以下、「御触留」と表記)は幕府や領主からの触を書き留めたものです。同じ安政5(1776)年のものでも、尾張藩が支配する名古屋の町方と、交代寄合旗本菅沼家が支配する三河の村方では、「御触留」の記載内容は将軍の死去を伝える点など一部共通の記事はあるもののほとんど異なっています。

安政5年 御触書留帳 新城市榊原淳一郎氏収集資料03-00083

2 絵尽し

吉田家文書には芝居番付が多数残されており、名古屋の芝居番付のほか、上方(京都・大坂)・伊勢などの芝居番付もあります。絵尽しは芝居番付の1つで、芝居の内容を絵にし、短文を散らした半紙本のもので、今日でいうプログラムに近いものです。この資料は、京都四条北側(北座)の顔見世狂言で上演された「伊賀越乗掛合羽」の絵尽しで、文政8(1825)年11月上演時のものと思われます。

文政8年 (絵尽し) 名古屋市吉田家文書02-00037-09

3 楽家録

元禄3(1690)年に刊行された、雅楽に関する諸説を古書から引用収録した雅楽書です。吉田家に伝来する『楽家録』は文政9(1826)年に筆写されたもので、雅楽を愛好していた7代当主が購入したものと思われます。雅楽の楽器とともに大切に保管されてきました。

文政9年写 楽家録 名古屋市吉田家文書05-00023~00055

4 弓之事(写)

徳川家康が松平元康と名乗っていた時代に、三河・駿河・遠江の者に弓の所持を許可したとされる資料の写しです。3つの地域には同様の資料が伝来しています。

[永禄5](1562)年 弓之事 新城市榊原淳一郎氏収集資料11-00185

5 金的中奉納額写

三河では古くから弓道が盛んでした。地域の神社には、的の真ん中に矢が命中すると奉納された「金的中」の額が残っています。資料は、文政9(1826)年の金的中奉納額を写し取ったものです。

(金的中額写帳)より 新城市榊原淳一郎氏収集資料06-00086

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