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【68】慶応4年1月 浪士捕え方につき旗本菅沼家役所より知行所庄屋宛て廻状

基本情報

資料名 【68】慶応4年1月 浪士捕え方につき旗本菅沼家役所より知行所庄屋宛て廻状
資料群名 新城市榊原淳一郎氏収集資料(B730008-001)
請求番号/資料名 03-00088(64)~(65)/ (幕府触書)ほか
詳細情報 (幕府触書)

解説

 この史料は、慶応4(1868年)年1月3日に交代寄合旗本の新城菅沼家役所より出された、下平井村(現新城市)から川田村(現新城市)までの村々庄屋宛ての達しを、西杉山村(現新城市)庄屋が書き留めたものです。この史料のように、役所や領主、代官所より出された文書を村から村へと回覧させた文書を廻状といいます。廻状は、江戸時代に用いられた情報伝達手段の一つであり、山村(現新城市)から廻ってきた文書を東杉山村(現新城市)へ順達していることがわかります。
 内容は、江戸で「討ち入り」が起き、そこから逃げ去った浪士37名が相州大山(現神奈川県厚木市)から駿州御殿場村(現静岡県御殿場市)、富士郡(現静岡県富士市・富士宮市)へ逃走したとの知らせがあったため、駿府代官所(現静岡県静岡市)から赤坂陣屋(赤坂役所/現豊川市)へ召捕り方を手配し、領内近くに来た場合はいち早く注進せよというものです。
 この江戸の討ち入りとは、江戸薩摩藩邸焼討事件であると考えられます。倒幕を目指す薩摩藩は幕府の信頼失墜を企み、江戸で放火や略奪を実行し、襲撃事件をたびたび起こしていました。これに対し、庄内藩らが浪士の討伐を決め、三田(現東京都港区)の江戸薩摩藩邸へ討ち入りました。藩邸にいた薩摩藩の浪士たちは約20名が一組となって逃走を図りますが、117名が捕縛されました。この事件をきっかけに旧幕府は討薩を開始し、戊辰戦争へとつながっていきました。この史料が作成された1月3日は、まさに戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いが始まった日です。
 なお、交代寄合については【43】をご覧ください。

※この解説文は、愛知県立大学の学生が博物館学の講義の際に作成した解説文を基に作成しています。

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