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県史収集資料室

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【66】慶応3年2月 硝石自製場での稼ぎ方につき旗本菅沼家役人三浦貞蔵より知行所村々宛て廻状

基本情報

資料名 【66】慶応3年2月 硝石自製場での稼ぎ方につき旗本菅沼家役人三浦貞蔵より知行所村々宛て廻状
資料群名 新城市榊原淳一郎氏収集資料(B730008-001)
請求番号/資料名 03-00088(10)~(12)/ 大目付より(幕府触書)ほか
詳細情報 大目付より(幕府触書)

解説

 この史料は、慶応3(1867)年2月19日に交代寄合旗本の新城菅沼家役人三浦貞蔵より下平井村(現新城市)から三蔵子村(さんぞうごむら/現豊川市)までの知行所村々宛てに出された硝石(しょうせき/黒色火薬の材料)製造に関する達し廻状です。その内容は、幕府が関八州(関東八か国)と伊豆、駿河、遠江、三河、甲斐、信濃、陸奥、出羽、越後、飛騨各国の中で石高が1万石以下の知行・給知(家臣に支給された土地)に硝石の製作所を作るよう指示したが、その際地頭(旗本)が自分用に硝石を作りたい場合は鉄砲玉薬奉行の了承を得るようにせよというものです。また、上記の国の御料所(幕府直轄地)、知行、給知、寺社とその領内、在町の者で金を稼ぐために硝石を作ることを希望する者は、関係役人を伴って市ヶ谷(現東京都新宿区)の加賀藩邸硝石仮会所に願い出て、鑑札を得るよう指示しています。
 開国以降の日本は尊王攘夷や討幕などで政局が目まぐるしく変わっており、軍備増強を強いられていました。そのような中で火薬の材料となる硝石の需要が高まったことで、各地の村々にその製作所が作られるようになり、商材としても活用されたと考えられます。
 なお、交代寄合については【43】をご覧ください。

※この解説文は、愛知県立大学の学生が博物館学の講義の際に作成した解説文を基に作成しています。

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